E.Tが友好的に指を出しても私はきっと応えることができない。

 

題を見て不快に思うかたもいらっしゃるかと思いますが、嘘偽りなく認めると

私はできない。

 

 

 

正直映画事態、語れるようなリアルな世代ではない。

もりもり転職を経て現在接客業に落ち着き自分の事がアリアリと見えてきた。

 

 

そして『可能な限りで、悟られないよう壁造りに努める』という裏で

『その壁は脆弱』だと言うことも痛感している。

 

 

 

 ない話だが、ETが来店したら

「うわ~、、、なんか変なの来たよ…」

って感覚をお帰りの際まで捨てきれないであろう。と推察する。

 

 

 

 

E.T... ゴー  ホーム」

 

なんぞ、含みを持たせてつぶやかれた

 

「どうぞ!どうぞ!!」

 

と、感涙もなく見送る。

 

 

自分のことだからわかるが

「悲しいね…」とそれらしいセリフをそれらしい表情で並べるが本心はそれだ。

 

 

外見で判断するなんて差別だ!!!と言われるだろうか。

それが、差別なのか?とも考えるが差別とも思えない。

蔑みの心はないのだが。。。

何なんだこの感覚。

 

 

あの映画『宇宙人も友達になれる!』などの少年心溢れる映画(ごめんなさい。内容うろ覚え…)だから拒否反応が出たのかもしれないと大人の自分は考えた。

 

映画での子供の純粋な心の表現「友達」「勇気」「感動」へ、大人の本心は、『このETを拒否してしまう自分』を『汚れた』と思うのだろうか?

 

私は子供心の時代からあの映画に拒否反応があった。

ディスりじゃなくね。

 

 

うわ、うわ、うわ~

だった。

 

 

部屋に来たらバリモアのように「キャーキャー」だし、あれが普通よね。そのうち慣れちゃうんだけどね。

 

 

 

小学校の道徳の時間にこの映画を見せられ、全然興味すらなく『宇宙人すぐ来て帰る』くらいの感想とETの生々しさに「うわ…」っと終始身を置かされたのを思い出す。

 

観賞後にお決まりの感想発表では同級生が

「友達になれてよかった」「あきらめない事が大事」「感動しました」と寝ていても言える感想を並べていたので、私も同級生の意見を拝借し参考にし同じようなことを話した、と『思います。』

 

『思います』っというのは、子供時分物事に興味がないだけで今よりは世の中を斜めに見ていなかったと、思うので、、、思いますと。。。思いたい。

 

 

大人になると言うことは何層にもフィルターがかかっていくことかと思う。そのフィルターは『固定観念』というものでだんだんと見えるものの色を失わせる。怖いのはその刷り込みがいつ行われたのか刷り込んだ側も刷り込まれた側もわからないことだ。

 

残酷であると言うことは、フィルターがかかっていないと言うことでもあるのではないか?道徳の時間に並べられた「キレイな言葉」は大人のエゴで子供の感想なのだろうか?

 

良いことを言う練習を私たちはする。

では、悪いことを言う練習をなぜしないのか?

 

 

悪口を言うのは他人を傷つける

  

たしかにそうだ。

 

 

私の中にあるスレはそうではないのだ。

傷つくことで立ち直れない事もあるだろう。それが障害となる前に排除してしまい『そう思ったこと』にはフォーカスしない。その『キレイなスレ』は排除後はどこにいくのだろうか?

 

 

「人を傷つけるから言ってはいけない」と言われて殺した言葉はどうなるのか?

その言葉で自分は傷ついてないのか?

自分の中に生まれたものに向き合う芽を摘む。 

それが、固定観念や都合の良いエゴなのではないのか?

 

題をつけたETが~を思い付いたときは、こんなどんよりした内容を1回目から綴ろうとは思っても見なかった。「気持ち悪くて手なんて出せない」って思いながら書きはじめたが、どうやら奥底で眠っていた本心は違うらしい。

 

ETにあるのは、自分の未知への対処方の無さだ。